歌についての原風景の一つは、多分3歳くらいの時だろうか、まだ幼稚園に入る前のこと。私は覚えていなくて、母から聞いた話。
母に連れられて近くの公園で遊んでいた時、私は滑り台の上に登って、大きな声で歌を歌った。すると近くにいた子どもたちが滑り台の下に集まってきた。一曲歌い終えて、ステージ上の歌手よろしく丁寧にお辞儀をすると、子どもたちがみんなでパチパチと拍手をしてくれたのだそうだ。
三つ子の魂百まで。齢52になった今も同じことをしているから笑ってしまう。
歌が好きなのは血筋のようで、祖母はおっそろしく厳しい明治女だったが、よく私を膝に乗せて歌って聴かせてくれた。祖母が唯一優しさを見せてくれる時だった。放蕩者だった亡父も、たまに帰ってくると、惚れ惚れするようなテノールの美声で時々カンツォーネやジャズ、ラテンを唸ったものだ。
小学校入学から中学いっぱいまで、私はひどいいじめにあってきた。ソリの合わなかった小学校のある担任の先生と和解したのは、音楽クラブで歌を認められたことだった。中学では更にいじめがエスカレートして、心身共にボロボロの状態だったが、3年の時、音楽の先生に抜擢され、全校生徒の前で、合唱曲「美しき青きドナウ」の二重唱部分のソプラノパートを、アルトの後輩と2人で歌ったのが、たった一つの肯定的な視線を浴びた思い出だ。
東日本大震災の年に、私が心理職につくきっかけとなったスーパーバイザー、歌のステージに上げて下さったジャズの恩師、大好きな舅という、三人の大切な父的存在を一度に亡くした。大きな喪失感で弱った心を奮い立たせてくれたのは、歌や朗読のステージだった。
思えば歌はいつも私のピンチを救ってくれた。歌がなかったら、私は今頃生きてさえいなかったかも知れない。才能なんて、本当はさほどのものではなくて、歌わないでは生きていけないという習性が、歌い手の本質なのではないだろうか?
明日(日付け変わってもう今日だ!)は3年ぶりのステージ、私は自分のホームグラウンドに帰ってきた。私の我儘に付き合って下さるお客様に心から感謝して、ただひたすら楽しく、音楽に身を浸そう。
美沙落合
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