私は自分の教えているテキストなどについて、うちの生徒さんが外で使うことを、あまり厳密に禁止していない。だから長年やっていると、私の書いたものが、外に流出している可能性も否めない。実際、思わぬところで発見してびっくりしたことも無きにしも非ずだ。

著作権に対する意識が薄いのは、あまり褒められたことではない。他の講師の方のものを誰かが無断で使っているのを見ると、これはいかんな、と思う。その講師にあまりにも失礼だと腹が立つ。

私が自分の書いたものには比較的無頓着なのは、例えば、ある料理人がレシピを公開して、誰かがそれを真似たとしても、同じ味の料理はできない。同様に、私のレジュメで、他の人が私と同じ講義はできない。その点には自信があるからだ。

同じ講座を何度やっても、一度として同じことを喋ったことはない。その時の生徒さんのニーズや、反応を見ながら、臨機応変に授業内容を変えている。うちの講座では、再受講は無料にしているので、同じ講座を何度も受けられる生徒さんは少なくない。その都度違った学びがあると、喜んで下さる。

それが後進の講師を育てにくい原因にもなっているので、必ずしも良いことではないけれど、プロの教え手というものは、そういうものではないか?うちの講師にも、私と全く同じ講座はやって欲しくない。それぞれの方の実感を伴う、生きた講座をして欲しい。

レジュメは単なるレシピに過ぎない。型を学ぶことはできても、伝える思いは全員違うはずだ。だから私自身も、プロになる前もなってからも色々なところで学びはしたが、出来合いの誰かのレジュメで教えるのは嫌いで、どこかの協会や学会のインストラクター資格はいらないし、どこにも所属したくない。

ただ、学ぶ姿勢としては、知っていることに教わったことを比べて評価するのは間違いだ。赤いインクの入った入れ物に、いくら他の色の水を入れても、その色を確かめることはできない。一度入れ物を空にして、真っさらな気持ちで学ばないと、何も新しい学びは得られない。ごくたまにだが、自分ができることや知っていることを誇示するために来たのか、と思うような人がいる。自分の意見に拘ったり、講師の値踏みをする。一体何をしに来たのか、と不思議だ。それでは何も学べない。ご本人にとってももったいない話ではないか。

「守破離」という言葉がある。一度真っさらな気持ちで真摯に学び、その方法ではなく、哲学そのものを手に入れる。それに習熟して初めて、深い疑問が湧いてくる。その葛藤の後に、外から取り入れたものを、時間をかけて自分のありようと統合できた時、誰かの真似ではない、本物のオリジナリティーが生み出される。

どんな職業でも、プロと呼ぶに相応しいのは、その領域に達した人のことだ。私を真似ることは誰にもできないし、私の後に続く人にも、私の真似でなく、本物のプロになって欲しい。

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美沙落合

美沙落合

一般社団法人日本イーブンハート協会 代表理事 イーブンハートスクール校長 心理カウンセラー、フィトセラピスト、アートセラピスト イベントプロデューサー